死ぬかもしれないという緊張感と、味わったことのない恐怖感。
真っ黒い水が向かってくる。見慣れない光景。
信じがたかったが、会社に戻らなければと無我夢中で歩いた。
「建設業としての使命感」
道路、防潮堤、鉄道、そして銭湯。生活に欠かせないインフラを復旧。
地域の守り手として、地域住民のニーズに応え、その発展に尽力した男が見つめる先は…
(株)山長建設 代表取締役社長 山﨑寛
ナビゲーター:宮田敬子
※ラジオ番組音声は以下からお聴きいただけます。
津波が引いた後の山長建設付近。中央やや左の白い建物が山長建設の社屋。
社屋入り口から駐車場へ至る通路。車を越える高さの津波が押し寄せた。
代表取締役社長を務める山﨑寛さん。地震発生時は社屋内で打合せ中。揺れが収まった後、予定の仕事を切り上げて自宅へ。その途中で家族と合流できた。
当時の写真を見ながら被害の大きさを説明する山﨑さん。釜石の中心部は建物が残ったが、鵜住居地区は跡形もなくなってしまった。あの光景が忘れられないと話す。
道路の啓開、大槌町の防潮堤、三陸鉄道など数多くの復旧・復興工事に携わった山﨑さん。遠野など内陸部の同業者や建設業協会の支援に助けられたと、当時を振り返る。
山長建設の本社隣にある鶴乃湯。津波が押し寄せ、釜や浴槽、脱衣場など全てが使えなくなった。行政からも要請があり、復旧工事を開始。1ヵ月という短期間で復旧させた。
半世紀以上、地域住民に愛された銭湯。当時、家の風呂が使えない住民も多かったので、鶴乃湯の再開を望む声が多かった。
当初は無料で開放し、多いときは1日で1,000人くらいの来場があった。燃料費高騰などがあり、惜しまれつつも3年前に廃業。
釜石は少子化や急速な人口減少に直面している。街としての方向性に不透明な部分も大きい。まちづくりに対して、住民と地元企業が知恵と工夫を結集することが求められる、と山﨑さん。また、建設業界に若い技術者が育ってきている。やる気のある若い人達を前面に出せる場があればとても良いな、とも話す。子供達は財産だと思う。
東日本大震災の後、お風呂になかなか入れなかったという方も多かったかもしれません。私も箪笥にあった衣装ケースに、少ないながらお湯を張って子供の体を洗っていたことを思い出します。入浴も日々の当たり前の行動ですが、それができなかった震災後、山長建設では道路の啓開作業に加えて、銭湯の復旧にも尽力しました。
鶴乃湯で大きな被害があったのが、湯を沸かすのに一番大切な釜でした。実はこの釜、東北各地の銭湯の多くが同じ会社の釜を使っているということで、修理に来てもらうのにも時間がかかったそうです。それでも社員総動員で、一か月での再開がかなった鶴乃湯。
きっと多くの方が、大変な毎日の中、ほんのひと時でもほっとする時間を過ごせたのではないでしょうか。銭湯の目の前に店を構える児玉さんにお話を伺った時、震災後、鶴乃湯に入って本当に安心したと目を細めながら話した表情が今も印象に残っています。
今回も5回の放送を通して、当時の報道ではなかなか取り上げられていたなかった、建設会社の皆さんの様々な取り組みをご紹介しました。道路・港湾の復旧作業はもちろん、銭湯の復旧、仮埋葬、仮設商店街の建設…自衛隊や警察の方々と協力しながら最前線で街の復旧を担っていたのは皆さんだったことを改めて感じました。
備えの大切さも痛感しました。みなさんは訓練などを通して日々備えていたからこそ、誰よりも早く動き出すことができていました。ついつい後回しにしてしまういざという時の備えですが、いつ来るか分からないということは明日来てもおかしくない…その時自分がどう動くのか、あの日の経験を生かせる自分でいたいとも思いました。
そして今回は、皆さんの言葉から未来へ向けた思いも聞かれました。
山長建設の山﨑さんは、少子化が進む中で次にあのような災害が起きた時に地方は対応できるのか心配はあるといいますが、若い技術者も多く育っていて、みんな強い思いを持って仕事をしているから大丈夫と力強く話していました。大船渡市の佐賀組には、復旧作業を行う皆さんの姿を見て、建設業界を志す若者が入ってきているそうです。さらに石巻の丸本組では、あの未曽有の大災害から短期間で復興した姿を、これから世界に発信する使命が私たちにはあるという言葉も伺いました。
私も自分が取材を通して知ったこと感じたこと、これからもいろいろな形で伝えていきたいと感じました。
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