東日本大震災で、石巻市北上町は橋浦地区や十三浜などが追波湾から北上川河口に押し寄せた大津波によって甚大な被害を受けた。
当時の北上総合支所は津波の直撃を受け、多くの方が犠牲となった。
さらに、堤防が決壊し道路が寸断され、25か所の集落が孤立状態となった。このため、住民の救出、物資補給のためには一刻も早い道路の啓開が必要だった。
地元の建設会社は72時間以内の道路の啓開を求められ、自らも被災者である自治体職員や地域住民と力をあわせて道路復旧をめざす。そして、昼夜を問わない懸命の復旧工事により求められた時間内に道路を開通させた。
その道を通り自衛隊や消防などの救援車両が孤立する住民のもとへ向かったのだった。
その原動力は、地元が困っている時に何とかしなければならないという意識だと語る。
(株)武山興業 武山德蔵
ナビゲーター:宮田敬子
※放送終了分のラジオ番組音声は以下からお聴きいただけます。
武山興業本社にて武山德蔵さん(同社会長)、今野照夫さん(石巻市河北総合支所)にインタビューする形で番組を収録。
番組収録風景。武山さん、今野さんからお話を伺うナビゲーターの宮田敬子さん。
北上川河口付近の堤防は東日本大震災の津波で崩壊し、道路が寸断されて25か所の集落が孤立、およそ1,900人の住民が避難を余儀なくされた。
被災から時を置かず、24時間態勢で道路の復旧工事が開始された。
緊急工事で補修された道を進む自衛隊車両。72時間以内の復旧を求められた工事は、住民救助に向かう緊急車両のルートを開いた。
道路の開通に住民たちは拍手をして喜んだ。北上川の堤防と道路が復旧し、地域の人たちは車を使った移動ができるようになった。
車両が使えるようになり、被災地域には救援物資が運び込まれた。
武山興業は国道45号線の小泉大橋の仮復旧にも携わり、気仙沼方面の復旧に不可欠な幹線ルートの確保に寄与した。
現在の石巻市北上町吉浜地区。旧北上総合支所、吉浜小学校をはじめ多くの家屋が津波の被害に遭った。今は石巻・川のビジターセンタが設けられている。
復旧工事からさらに整備された現在の北上川堤防と国道398号線(吉浜地区付近)でリポートをする宮田さん。
「あぁ…放送時間が足りない!」
番組では5回に渡り様々なお話を伺ってきましたが、毎回事前のインタビューは放送の数倍の長さに及んでおりました。それほどに皆さんのお話は熱い言葉に溢れており、すべてのトピックを多くの方に聞いていただきたい!と思わずにはいられませんでした。放送でご紹介できなかったことを少しでも伝えられたらとこの編集後記を書いていまいしたが、今回で最終回とは…寂しい限りです。
さて、今回北上地区への取材で改めて驚いたことが、追波橋に表示された津波到達点でした。それはあまりに高く、周りを見渡してもその高さから逃げられる場所はありません。目の前の穏やかな北上川河口の風景からはあまりにかけ離れていて恐怖を感じました。そんな中で、本当に多くの物を失ったという武山德蔵さんと今野照夫さん。震災当時のことは、きっと話すのを避けたいこともたくさんあったと思います。それでも、当時の思いを一つ一つ教えてくださいました。
「道路は当然そこにあるもの」そんな考えは自然災害の前では通らないことを感じさせられた東日本大震災。しかしその道がなければ生活は一変してしまいます。番組では紹介できなかったのですが、武山興業では震災翌日から気仙沼につながる小泉大橋の応急工事も担当しました。この橋が無いと2倍以上の距離を遠回りする必要があり、とにかく通れるようにすることが喫緊の課題でした。武山さんが震災後会社に戻れたのは次の日でしたが、もうその時にはほかの社員の皆さんは動き出していたそうです。おそらくその場にいた全員が被災して、自分のことで精いっぱいになる状況だったにも関わらず…そんな中でも動くことができた原動力を、武山さんは「使命感」などではなく「地域と一緒だから」とおっしゃいました。
建設業に携わる皆さんと「地域」との結びつきの強さは5回のインタビューすべてを通して感じたことでした。「地域にいる誰かの大切なものだからただの瓦礫じゃない」、「地域の不安をなくしたい」、「地域に住み続けられる環境を整えたい」取材した皆さんがこうおっしゃいました。私達の感じる安心感というのは当然の物ではなく、私達の想像を遥かに超える自然災害はあっという間に「安心」を奪い去ります。しかしそうならないために、今できる最大限を尽くして地域を守ろうとしている皆さんに感謝しながら、その上で私たちはどう防災意識を高めておく必要があるのか、そして何ができるのか、震災から13年、もう一度考えなければいけないと感じました。
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