宮古湾に注ぐ閉伊川を船が遡る。堤防からは黒い水が溢れてくる。
つい先程まで仕事をしていた現場は水浸し。
何もかもなくなった…。
しかし、事務所では同僚たちが復旧に向けて動き出していた。
私一人が呆然としているわけにはいかない、
みんなと一緒に動こう、できることからやろう!
「宮古の町を守る人」が動き出した。
刈屋建設(株) 工事課長 東舘清一
ナビゲーター:宮田敬子
※放送終了分のラジオ番組音声は以下からお聴きいただけます。
震災の記憶を風化させず後世に伝えていくため、たろう観光ホテルは震災遺構として保存された。
たろう観光ホテルの向かいにある防潮堤の上から田老漁港を望む。この日の港は穏やかだった。
震災発生時は宮古魚市場近くにいた東舘清一さん。すぐに津波が来ると感じ、現場近くの高台に避難するも、そこから見た光景に呆然とするしかなかった。
翌日からは国道45号の啓開作業に従事。海に近い箇所での作業ゆえ、余震が起き、津波が予想されると避難しなければならず、思うように進まなかったと話す東舘さん。
震災から3年。田老地区の農地を復旧する工事に携わった東舘さん。津波で被災した範囲(野球場10面分ほど)を、約9ヶ月かけて整備した。
農地の地権者が集まって組合を作り、ソバの栽培が始まった。ソバは8月上旬に白い花を咲かせる。
その白い花をお盆の時に見せてあげたい。営農組合八幡ファームの小林徳光さんがソバ栽培を決めた理由の一つ。東舘さん達が整備した農地について「いい畑になっている」と語る。
この地域は明治三陸地震、昭和三陸地震、東日本大震災と何度も津波が来た津波襲来地域。大変なところに住んでいるが、津波が来るという宿命を持って小林さんは住んでいる。
2015年に小林さんの奥様が開店させた「はなや蕎麦たろう」で提供される蕎麦。連日、美味しい蕎麦を求めてお客さんが足を運ぶ。
建設会社の仕事は地図に残るような仕事だと話したりもするが、そこまで大きくなくても、不便なところが少しでも解消され、怖かったところが少しでも安全になる。そういったことが大切で、この仕事のやりがいかな、と東舘さんは話す。
宮古に取材に向かった日は、東北地方に暴風警報が発表され、車も横風を受けると揺れてしまうような風の強い日でした。そんな日でも、東北自動車道を降りて宮古へ向かう途中の道路で作業中の工事車両が…交通整理をする作業員の方は、手にした赤と緑の旗を風に煽られながらも私達の車を誘導してくださいました。通り過ぎる時に工事車両を見ると、これからお話を伺う「刈谷建設」の文字が。どんな状況であっても、道路が止まってしまったら何も進まない。お話を伺った東舘さんたちからまず感じたのは、道路を守るのは自分たちであるという強い気持ちでした。
さらに東舘さんたちが復興のために作ったのは道路だけではありませんでした。東日本大震災後、これまではやったことの無かった農地の復旧に携わったそうです。農地として使ってもらうためには何が必要か…それを考えながら、広大な土地の土を掘り起こし、細かいがれきも拾っていきます。範囲を写真で見せていただきましたが、気の遠くなる広さでした。そこを数人で担当したと言います。インタビューでも出てきた、「畑にゴミがあったらダメでしょ」という言葉。さらっと仰いましたが、最後までやり抜くのは一筋縄ではいかない作業だったと思います。
そうして完成した農地は現在「そば畑」に。そばを栽培する小林さんは、かつては街を守る消防士をされていて、そばの栽培は全くの初心者でした。しかし、街のために何ができるかと考え、地域の方と協力して試行錯誤しながら「はなや蕎麦たろう」で美味しい宮古の蕎麦をふるまっています。それでも、まだまだそばについてはわからないことだらけで、品種を変えてみたり、土の状態を管理してみても、天候に左右され思うように収穫ができない年があったり、挑戦は続いているそうです。
東舘さん、小林さんのお話からは、これまでやったことの無いことでも、それが地域のためになるなら、できる限りのことをやってみよう…そんな思いで仕事と向き合う姿を感じることができました。東舘さんも、近くに行ったときには小林さんのお店のおそばを頂くそうです。私もぜひまた伺おうと思います。
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