経験したことのない長い揺れ。立っていられなかった。恐怖を感じた。
岬のあたりから一気に盛り上がるかのような波が迫ってきた。足が震えた。
各々、陸の現場から、海の現場から・・・逃げた。
未曾有の大災害。
しかし、男たちは現場へ向かった。一刻も早く、車や船を通すために。
地域を守るという強い意識は、陸も海も同じだった。
宮城建設(株) 専務取締役 佐々木善則
宮城建設(株) 取締役港湾漁港部長 梶谷憲樹
ナビゲーター:宮田敬子
※放送終了分のラジオ番組音声は以下からお聴きいただけます。
久慈市のランドマーク的な存在として長く親しまれてきた久慈駅前デパート。某ドラマに登場し、一時は人気の観光スポットに。
久慈港近くにある東日本大震災モニュメント、ケルン・鎮魂の鐘と光。震災の経験と教訓を後世に伝えるために建立された。
モニュメントの高さは久慈を襲った津波の高さ14.5mに建設され、脇には鎮魂と光の鐘が設置されている。
佐々木善則さん(左)は幼少期に黒部ダムに憧れて土木工事の世界へ。梶谷憲樹さん(右)は防波堤の工事や消波ブロック設置など、港の工事を専門とする。
国道45号の啓開作業中、佐々木さんが「こんなものが流れてくるんだ…」と驚いたのがレール。100m以上も繋がっているレールもあり、それらを切りながら集積場へ運び出した。
震災翌日から港の調査を始めた梶谷さんが目にしたのは流されて海に沈んだ車や漁船。濁った海は中がよく見えず、機械を使って何が沈んでいるかを探り、場合によっては潜水士が目視で確認することもあった。
久慈市漁協は港の瓦礫撤去を宮城建設へ依頼。梶谷さん達は調査と並行しながら海の瓦礫撤去を行うことに。
この瓦礫撤去作業を見ていた漁協勤務の向井啓益さんは「まもなく元に戻るんだなあ」と、すごく勇気づけられたと話す。
漁協に隣接する久慈の魚市場。2011年3月30日に再開し、魚の水揚げが始まった。危険が伴う作業にも拘らず港を復活させた宮城建設の皆さんには感謝していると向井さん。
台風や時化、大雪などの災害が起きた時でも真っ先に何とかしなければいけない。車が道路を通れるように、船が港に出入りできるように。「地域の防人」という強い意識を持っていることを、二人から感じる。
今回お話を伺った佐々木さんと梶谷さんは、マイクを向けていない時間も、お二人で何とも楽しそうにお話をされていました。きっと、昔から数々の現場をご一緒されてきた仲なのだろうなあ、と思い聞いてみると、「同じ仕事はしたことないよ」と。大きく分けると佐々木さんは陸上で、梶谷さんは海上で、これまで別々の仕事をされてきたそうですが、インタビューを通して、お互いの仕事内容は常に気にかけ、尊敬と理解を持って過ごされてきたことが伝わってきました。
東日本大震災では陸上だけでなく海の中にも多くのものが流されました。一見すると海の上には何もないけれど、海底には車や漁船、それに流された家も…そのままでは船が漁に出ることもできません。宮城建設は、震災前から港湾整備事業など海での土木工事を行ってきましたが、海のがれき撤去は経験のないことでした。しかし経験は無くても久慈のためにはやらなければならない。宮城建設では、震災で船が一隻陸上に乗り上げて使えなくなったそうですが、それ以外の船が無事だったことからすぐにがれき撤去に着手。久慈だけでなくほかの港からも声がかかり、多くの港のがれきを撤去したそうです。
この港での作業だけでなく、東日本大震災では皆さんがこれまで経験したことのない作業に着手しなければなりませんでした。当時、船を守るために津波に向かって船を出した船長からは無線で、「今津波を一つ越えた」と言った緊迫した無線が届いていたそうです。佐々木さんも、延々と続く長い線路を切りながらそれを運び道を切り開く。でもどこへ運べばよいかわからない。何が本当に正しい方法なのか、きっとその時には誰もわからなかったと思います。それでもこれまでの経験をいかして一歩一歩進み久慈の生活を取り戻すことに尽力してきたのでしょう。
佐々木さんがおっしゃった「地域の防人として」という言葉は忘れられません。道路も港もいつも当たり前に使えると思ってしまいますが、私達が感じる「当たり前」を常に守ってくださる方がいるんだということを改めて感じるお話でした。
放送をお聴きになった皆様のご意見、
ご感想をお聞かせください。