3.11伝承ロード 未来への轍

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取材後記

岩手県久慈市

経験したことのない長い揺れ。立っていられなかった。恐怖を感じた。
岬のあたりから一気に盛り上がるかのような波が迫ってきた。足が震えた。
各々、陸の現場から、海の現場から・・・逃げた。
未曾有の大災害。
しかし、男たちは現場へ向かった。一刻も早く、車や船を通すために。
地域を守るという強い意識は、陸も海も同じだった。

宮城建設(株) 専務取締役 佐々木善則
宮城建設(株) 取締役港湾漁港部長 梶谷憲樹

ナビゲーター:宮田敬子

※放送終了分のラジオ番組音声は以下からお聴きいただけます。

取材後記

ナビゲーター
宮田敬子

今回お話を伺った佐々木さんと梶谷さんは、マイクを向けていない時間も、お二人で何とも楽しそうにお話をされていました。きっと、昔から数々の現場をご一緒されてきた仲なのだろうなあ、と思い聞いてみると、「同じ仕事はしたことないよ」と。大きく分けると佐々木さんは陸上で、梶谷さんは海上で、これまで別々の仕事をされてきたそうですが、インタビューを通して、お互いの仕事内容は常に気にかけ、尊敬と理解を持って過ごされてきたことが伝わってきました。

東日本大震災では陸上だけでなく海の中にも多くのものが流されました。一見すると海の上には何もないけれど、海底には車や漁船、それに流された家も…そのままでは船が漁に出ることもできません。宮城建設は、震災前から港湾整備事業など海での土木工事を行ってきましたが、海のがれき撤去は経験のないことでした。しかし経験は無くても久慈のためにはやらなければならない。宮城建設では、震災で船が一隻陸上に乗り上げて使えなくなったそうですが、それ以外の船が無事だったことからすぐにがれき撤去に着手。久慈だけでなくほかの港からも声がかかり、多くの港のがれきを撤去したそうです。

この港での作業だけでなく、東日本大震災では皆さんがこれまで経験したことのない作業に着手しなければなりませんでした。当時、船を守るために津波に向かって船を出した船長からは無線で、「今津波を一つ越えた」と言った緊迫した無線が届いていたそうです。佐々木さんも、延々と続く長い線路を切りながらそれを運び道を切り開く。でもどこへ運べばよいかわからない。何が本当に正しい方法なのか、きっとその時には誰もわからなかったと思います。それでもこれまでの経験をいかして一歩一歩進み久慈の生活を取り戻すことに尽力してきたのでしょう。

佐々木さんがおっしゃった「地域の防人として」という言葉は忘れられません。道路も港もいつも当たり前に使えると思ってしまいますが、私達が感じる「当たり前」を常に守ってくださる方がいるんだということを改めて感じるお話でした。

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