防災に熱心だった地区も
備えきれなかった“想定外”。
“想定”と“偶然”で救われたいのちを
必ず救われるいのちにするため
より遠くへ…より高台へ…
気仙沼市 東日本大震災遺構・伝承館
館長 佐藤健一
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杉ノ下地区遺族会 小野寺敬子
ナビゲーター:伊藤永夏
※ラジオ番組音声は以下からお聴きいただけます。
緑の防潮堤は時に凶器に変わり、松の木は校舎も襲った。「植林は何を目的とするか、木の種類や配置も重要」という。
4階のレターケース25~30センチ付近に津波の跡。残された避難場所は屋上しかなかったことがわかる。
津波は体育館の屋根も壁も破壊した。隣は合宿棟で、かつては生徒たちが楽しく食事をする活気あふれた光景があった。
折り重なった車は引き波の影響と考えられるとのこと。当時は家屋も校舎に引っ掛かり、宙に浮いていた状態から母娘が奇跡的に救助された。
杉ノ下高台に整備された「避難タワー」のような東屋は高さ19メートル程度あるという。
杉ノ下の高台に整備された築山から遺構を眺めると目線より下に見えるが、この高さが安全なのか「想定」は出来ない。
「この悲劇を繰り返すな 大地が揺れたらすぐ逃げろ より遠くへ…より高台へ…」遺族会・小野寺さんがこだわって入れた3行だという。
遺構に入る前に、伝承館で被害状況を学ぶ。気仙沼市は最大20メートル超の津波のほか、石油タンク流出による大規模火災も起きた。
「ハードで津波は防げない。津波は低頻度災害、それだけ長い時間耐えられる構造物は作れない」佐藤館長の話は常に説得力がある。
南校舎はアスベストの関係もあって津波で破壊されたまま残さざるを得なかった。それが遺構として残そうという動きになったという。
図書室は2階にあったが、本が散乱していたのは3階。「津波が巻き上げたと考えられる」と佐藤館長。
遺構の中に突っ込んできた車があるのは南校舎の3階。そのほかにも冷凍工場の断熱材なども見られ、ありえないものが流れてきたことがわかる。
屋上に避難した気仙沼向洋高校の教職員や工事関係者らは、鉄塔に上ったり、少しでも高い屋根の上に上がって難を逃れたという。
冷凍工場の激突した跡が残る南校舎。入館前に外からも大きなインパクトを与える。
左から杉ノ下地区遺族会の小野寺敬子さん、遺構・伝承館の佐藤健一館長、ナビゲーターの伊藤永夏アナウンサー。
杉ノ下地区遺族会の小野寺さんの体験談に佐藤館長は何度も目頭を押さえた。番組内でも鼻をすする音が実は聞こえている。
〒988-0246
宮城県気仙沼市波路上瀬向9-1
▼施設に関する窓口
気仙沼市 東日本大震災遺構・伝承館
TEL:0226-28-9671
▼公式サイト
気仙沼市 東日本大震災遺構・伝承館 公式サイト
3回目に訪れたのは宮城県気仙沼市です。東日本大震災で気仙沼市は死者1,143人(震災関連死を含む)、行方不明者214人という大きな犠牲を払った地域です。今回お話を伺ったのは気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館館長の佐藤健一さん(当時気仙沼市職員で防災担当)、同じく伝承館スタッフで杉ノ下地区遺族会の小野寺敬子さんのお二人です。
気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館は、震災の記憶と教訓を将来に繋ぐために「目に見える証」として当時の気仙沼向洋高校の敷地内に2019年に開館しました。南校舎は当時の悲惨な状況をそのまま残しています。現在は伝承館の正面に地元の人たちの憩いの場であるパークゴルフ場があり、取材に訪れた日も多くの地域住民でにぎわっていました。
今回初めて足を運んだ私が、車で到着し一番初めに目に飛び込んできたのは、遺構として残されている気仙沼向洋高校の旧南校舎にあたる4階部分の窪みです。最初は揺れによって崩れたのかなと思いましたが、館長に案内してもらうと当時近郊にあった冷凍工場がぶつかり壊れたのだと知り、大きな建物が4階部分まで浮かび流されてくるという想像を絶する津波の恐ろしさに言葉を失いました。
1階は天井がほぼなくなり、骨組みのようなものがむき出しに。2階にあった図書室から流されて3階に入り込んだ書籍の数々には泥が乾いた跡が。また、3階にはひっくり返りほぼ潰れた状態の車があり、地上8メートルの高さまで流れ込んできたという現実を突きつけられました。
当時、この学校にいた生徒は避難し、残っていた先生と工事関係者は屋上に避難し助かっています。しかし、当時の外の様子を写した写真を見ると波は屋上のギリギリまで来ており、津波は恐ろしいものだという言葉では言い表せないくらいの恐怖を感じました。
お話を聞いたスタッフで語り部も務める小野寺さんは、地区の約30%にあたる93人が亡くなった杉ノ下地区に住んでいたお一人です。
お父様と叔母様、いとこの方を亡くされていますが、震災発生当時の街の様子、どう逃げたのか、2日間会えずじまいだったお母さまとの再会、避難所から仮設住宅に移るまでの日々、あと数秒逃げ遅れていたらここにいないかもしれないという全てのことを詳細にお話してくださいました。
「この大きな犠牲を無駄にしてはいけない、ここから学ぶことがなければならない」
とても印象的だった小野寺さんの言葉です。是非放送で実際の小野寺さんの言葉で当時の状況を聞いて皆さんにも一緒に考えていただきたいと思います。
また、佐藤健一さんは当時、気仙沼市の防災担当として防災マップ作りや防災を呼びかけるワークショップを開催するなど精力的に「防災」に取り組んできた一人です。大きな犠牲が出てしまった杉ノ下地区ですが、このワークショップを通して佐藤さんは杉ノ下地区の人たちは防災意識が強いと感じていたそうです。それでも奪われてしまった多くの命がある。それは「災害には上限がなく想定外のことが来るかもしれない」ということを想像しなければならない、東日本大震災以上の大きな地震が来てしまったらどうしたらよいのか、きちんと向き合って考えてほしいとおっしゃっていました。
取材が終わった後、佐藤さんに今日見た遺構のことや見て感じたこと、今日の取材のことを家族や大事な人と共有していきたいと思いますとお伝えしたところ、その日一番の笑顔を見せてくれました。「いつも私が一番最後に言うのはそれぞれ感じてもらったことをぜひ共有してほしいということなんです、よかった」と。
まだ気仙沼東日本大震災遺構・伝承館に足を運んだことがない方もある方も足を運び、この番組を通してお二人の生の声とお話を聞き、二度と同じ犠牲を生まないための行動や備えを一緒に考え、聴いている全ての方の大切な人たちと共有していただければと思います。