“被災3県”に含まれない青森県。
八戸市で起きていた大きな損害、
そして命を守った行動。
それを知ることはあなた自身を守る教訓になる。
大事なことはどこに住んでいるかでなく、
そのときどこにいるか-。
八戸市みなと体験学習館
館長 前澤時廣
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八戸工業大学 吉田龍平
ナビゲーター:伊藤永夏
※ラジオ番組音声は以下からお聴きいただけます。
日本最大級といわれる「館鼻岸壁朝市」の会場。普段はだだっ広いスペースがあるだけだが、その規模感に圧倒される。
館鼻公園内にある「海嘯災記念碑」。「地震 海鳴り ほら津波」と災害への意識を常に促す。
左から八戸市みなと体験学習館の前澤時廣館長、八戸工業大学4年吉田龍平さん、ナビゲーターの伊藤永夏アナウンサー。
みなと体験学習館では震災当時の映像を見ることが出来、探査船ちきゅうからの映像も記録として残されている。
「青森県全体で1,300億円超の物的損害があったが、うち1,200億円は八戸市が占める」と前澤館長は話す。
八戸の汐越二部町内会長・五戸雅春さん。母親を車で避難場所に連れていった後、自宅に戻ると津波の音を聞いたと言う。
グレットタワーみなとからの眺め。ぐれっと(全部)見渡せるという意味の通り、下北半島まで見られるそうだ。無料で!
館鼻公園内にあり、今回の収録場所にもなったグレットタワーみなと。太平洋を一望し、八戸港を見下ろす高台にある。
浜市川保育園の石田良二理事長は、津波にのまれ意識が一部飛んでいるそうだが、九死に一生を得た話を聞かせてくれた。
震災発生時「探査船ちきゅう」を見学していた当時小学5年生だった吉田さんが書いたリポートには、津波を避けるため400m沖に出たことなど書かれている。
合同会社マルカネは代表社員の秋山兼男さんが震災後に立ち上げた水産物加工販売会社。取材に対し、様々な支援への感謝の言葉が聞かれた。
みなと体験学習館では、津波の高さが体感できるように建物の階段部分に表示を付けている。
吉田さんは、当時の新聞や資料を大切に保管していて私たちにもその様子を細かく伝えてくれた。
親子ほど年の離れた前澤館長と吉田さんだが、震災の教訓を伝えたいという熱意は同じ。1時間半もの間、震災の教訓を話してくれた。
八戸市の中でも大きな被害のあった蕪島の神社付近。周辺のフェンスがなぎ倒され、がれきで島が覆われた。
蕪島では「東日本大震災」と「昭和三陸大津波」それぞれの浸水高が示されている。
〒031-0812
青森県八戸市大字湊町字館鼻67番地7(館鼻公園内)
▼施設に関する窓口
館鼻公園事務所
TEL:0178-38-0385
東日本大震災の発生から間もなく11年になります。
月日とともに復旧・復興が進んでいますが、初めて足を運ぶ震災伝承施設や語り部の方々から、当時の記憶を風化させず、防災について発信し続ける強い気持ちを感じています。
はじめに取材で訪れたのは青森県八戸市。震災による青森県全体の物的損害は1,300億円、うち八戸市が1,200億円超を占めたそうです。
八戸市に到着して見えてきたのは広大な海。
今回取材した場所、八戸市みなと体験学習館のすぐ横にある「グレットタワーみなと」の展望台からは、太陽が照らす美しい八戸港や街並みがしっかりと一望できました。
太平洋を臨む館鼻岸壁には、日曜日の朝に全長約800m、およそ300店の巨大朝市が出現し全国でも屈指の朝市として賑わいと活気で満ち溢れると教えていただき、まさに海と共存する街だと感じました。
八戸市みなと体験学習館は、入ってすぐに四方八方に当時の映像が映し出される震災タイムトンネルがあり、音と映像で当時の様子を知ることができます。そこをくぐると市民が撮影した当時のアーカイブ映像、さらには今後の備えとして重要な防災グッズなどの展示があり、当時の記憶を忘れないだけでなく、防災への意識の重要性を再認識できる構造になっています。
2階に行くとすぐに目に飛び込んでくるのは全長13メートルのスクリーン。四季の魅力を感じられる湊ワイドスコープに映し出される風景や歴史を見たとき、それぞれ自分の大好きな街、守りたい街、後世に繋いで活きたい文化を守るためにも、震災の実情を忘れず、防災への意識を改めなければならないと伝えられているように感じました。
今回は八戸市みなと体験学習館の館長前澤時廣さん(当時八戸市議会議員)、市内の大学に通う吉田龍平さん(当時小学5年生で八戸港に停泊していた探査船で一晩を過ごした)、お二人にお話を伺いました。
前澤館長と吉田さんお二人ともおっしゃっていたのは「海は大好きだし、これからも八戸にとって大切な存在だ」という言葉です。
今は美しい海だけれど、時には牙を向くことがある現実に向き合っている、その海を怖がるだけではなく、同じことが起こってしまった時、どうすればいいのか考えて備える。
人は忘れてしまう生き物だから、時が経てば忘れてしまうこともあるけれども、ここに足を運ぶことで当時の様子や防災について考えてほしい、そして一人で考えるだけでなく家族や友達と共有してほしい。その言葉の一つ一つから「もし震災が起きてしまったらどうしたら良いのか、一人一人が自分事として考えてほしい」という強い想いを感じました。