4つの湾に面し、
それぞれで大きな被害を
生んでしまった釜石市。
命を救った防災教育と大きな犠牲があった
「釜石の出来事」から
未来へつなぐメッセージを伝えたい-。
いのちをつなぐ未来館 川崎杏樹
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釜石鵜住居復興スタジアム 並里めぐみ
ナビゲーター:伊藤永夏
※ラジオ番組音声は以下からお聴きいただけます。
新華園本店の店主・西条優度さんはご夫婦それぞれで違った避難体験をしたことを話してくれた。
当時の新華園周辺の様子は店先で見ることが出来る。商店街にあったアーケードは震災後撤去せざるを得なかったという。
新華園本店では津波が2階まで達した。屋上へ避難すると、信号待ちの車に後ろから津波が襲う様子を見ることになった。
西条さんはお店の前の道路を車と家が流れていったと話す。
「今は特に見せることもしていない」と15時23分で止まった時計を取り出して見せてくれた。
釜石の菊地写真館の菊地信平さんは、震災直後から様々な写真を撮った。津波から何とか逃げ切った人も写っていた。
鵜住居小学校校舎では最上階にも車が突っ込んでいた。直後にはさらに1台あったという。
大槌町赤浜に観光船が乗り上げた様子は報道も多かったが、菊地さんの写真は強烈なインパクトを残す。
ラグビーの街・釜石市のスポーツ推進課で働く長田剛さん。かつてはトップリーグでも活躍したラガーマン。
奈良出身の長田さんにとって、釜石はラグビーが引き合わせてくれた街。2018年春まで在籍したシーウェイブスは街に愛されているチームだという。
大槌町の赤浜、観光船が乗り上げた場所はいま草むらが広がっていた。
釜石鵜住居復興スタジアム、四季折々の表情を近くで楽しむことができる。
鵜住居復興スタジアムはかつて小学校、中学校があった場所。津波から逃げて、と強く訴えかけている。
未来館のある「うのすまい・トモス」内の「釜石祈りのパーク」には防災センターの遺物が保存されている。
三陸鉄道の鵜住居駅はラグビーの街らしい「トライステーション」と彩られている。
津波で壊滅状態になった鵜住居小学校と釜石東中学校は、うのすまい・トモスの近く、高台に引っ越しをした。
「いのちをつなぐ未来館」の展示、防災センターの出来事。なぜ命が失われたのか、川崎さんが何度も強調した「伝えたいこと」につながっていく。
右:鵜住居復興スタジアム・並里めぐみさん、中央:いのちをつなぐ未来館・川崎杏樹さん、左:ナビゲーター・伊藤永夏アナ。
未来館の中央にある図書スペースは語り部プログラムなどでも利用されている。並里さんのラグビー愛にあふれたジャンバーと共に。
釜石市の隣、大槌町では津波浸水域にあたる役場庁舎に職員が集まってしまったことで悲劇が起きた。大槌出身の並里さんは津波火災の衝撃も語った。
〒026-0301
岩手県釜石市鵜住居町四丁目901番2
▼施設に関する窓口
いのちをつなぐ未来館指定管理者
TEL:0193-27-5666
▼公式サイト
うのすまい・トモス公式サイト「いのちをつなぐ未来館」
2回目に訪れたのは岩手県釜石市です。
東日本大震災で釜石市では死者・行方不明・震災関連死を合わせ1,060名を超える命が奪われました。
岩手県釜石市の当時の様子などをメディアを通して見たことがあったものの、実際に足を運んだのは今回が初めてでした。取材途中では鵜住居にあるとある中華料理店へ。「いつもありがとうございます」「お久しぶりですね、元気でしたか?」と地元の人たちが方言で話す様子に、この地域の人たちの絆と人柄の温かさを感じました。
今回お話を伺ったのは、当時釜石市の中学2年生で現在、釜石市にある震災伝承施設「いのちをつなぐ未来館」で働く川崎杏樹さんと、隣町の大槌町出身で当時中学3年生、現在は鵜住居復興スタジアムで働く並里めぐみさん。お二人とも、県の内外問わず、訪れた人たちに当時の経験を伝えています。
とても明るく私たちを出迎えてくださったお二人は、一緒に仕事もしたことがある間柄ということで、和やかな雰囲気でスタートした取材。
しかし、話を聞いていくと、震災当時秋田県に住んでいたわたしには想像もつかないほどの光景を目の当たりにしていることを知りました。
大好きな街が黒い渦にのまれていく様子、迫りくる火事によって街が赤く染まった様子、いつ落ち着くのだろうという不安だった気持ち。あそこも、ここも全部ダメだという言葉だけが飛び交っていた避難場所。詳細に当時の様子を語ってくださいました。
これまで想像したことのなかった釜石を目の当たりにしたからこそ「命を守ることを考えてもらうきっかけを作りたい」お二人が当時のことを伝えていくことを選んだ理由でした。
釜石市は防災教育にも力を入れていたこともあり、川崎さんは津波の速さ時速36キロを体感するための自動車と並走する授業を受けたり、並里さんも年に一度、町全体で津波が来た時を想定した避難訓練を受けたりしていたそうです。訓練をしていても想像もつかない大きな地震と津波が来れば冷静ではいられなくなる。頭では分かっていても、実際に経験した人からお話を聞くのは初めてだったため、今回の取材を通して「命を守る」ということを自分で考えるだけでなく大切な人たちと共有していかなければならないと強く感じました。
また、避難することが第一とはいえ、当時とても気温が低く、上着など最低限避難生活ができるものを持って避難すればよかったという教訓もあったといいます。これも普段からどれだけ「備えているか」だと身をもって実感したそうです。
お二人のお話の中で特に印象的で考えさせられた言葉があります。
「一人でも逃げる」
家族を探して戻ってはいけない、誰かの助けを待っていてはいけない、もし大きな地震がきたら、津波がきたら、どこかで必ずまた会えると信じて自分で行動しなければならない。
あなたは今、ほんとうにそれができますか?
今回のお話を聞いて当たり前の日常が当たり前じゃないということに気づかされました。当たり前の日常、自分の命、大切な人の命を守るために、是非、本編でお二人の声を聞いて、一緒に考えてもらいたいと思います。