遠野と釜石を結ぶ甲子跨線橋。40~50cmの段差ができて車が通れない。
明日には自衛隊や救急車両が数多く入ってくる…。
工事を始めるための準備が深夜まで続く。
翌朝、現場へ。懸命な作業により、橋は1日で通行可能に。
使命感、我々の世界はあまりそういうことは言わない。
「誰やんのよ」「俺たちだな」
原動力は、もっと単純なことだった。
株式会社テラ 代表取締役 三浦貞一
ナビゲーター:宮田敬子
※ラジオ番組音声は以下からお聴きいただけます。
遠野市では震度5強を観測。この時、三浦さんがいた岩手県建設業協会遠野支部会館では瓦が落ちる被害があった。
遠野支部で発行した活動記録集から。甲子跨線橋の位置が分かる略図と、復旧作業の様子。
三浦さんたちが復旧作業に多くの時間を費やした釜石市の松原地区。
左の写真の背中側に流れる甲子川。河口も近く、低い土地に瓦礫が大量に積み重なっていた。
三浦さんと一緒に重機を見て回る宮田さん。
敷地内には普段あまり見ることのない重機も置かれている。
50年近く土木工事に携わる三浦さんは今でも現場へ出向きます。人の働く姿、土の匂い、機械の音など、現場の空気が肌に合っているとのこと。
道路は復旧したが復興は…。遠野市もこの12年で人口が約2割減。若い人が地元で頑張り続けられる環境を作って、彼らの背中を押してあげることが大事なのではと話をしてくれました。
「くしの歯」作戦というものを聞いたことがあるでしょうか?
東北地方沿岸部に甚大な被害を与えた東日本大震災の後、救援車両が沿岸に向かえるよう、内陸部を南北に貫く東北自動車道と国道4号から、「くしの歯」のように沿岸部に伸びる国道を切り開くという作戦のことです。
「そんな名前、作業が終わってから知ったよ。あの時は、ただ道路を通すことに必死だった」と話すのは、あの日、沿岸部へ続く道路の復旧作業に尽力した一人である三浦貞一さんです。
東日本大震災の揺れの直後から、三浦さんは“これはただ事ではない”とすぐに行動します。
あらゆる関係者に電話をかけ、必要があれば関係者の家まで出向き、とにかく機材を集めて、震災の次の日の早朝には作業現場へ急行。通れなくなっていた橋を、震災翌日には通れるようにしたというのには驚きでした。東日本大震災では、海外から日本の道路復旧技術に驚きの声が上がりましたが、そこには、三浦さんのように経験をもとに的確に・迅速に動いた大勢の人がいたのだと改めて感じました。
私たちにとって、道路は目的地まで導いてくれるもので、当たり前に通れるものと考えるかもしれません。しかし災害時には救援のための必要不可欠なものであり、さらに町にとっては復興への大事な手段でもあり、道はあらゆるものの基盤となります。
道路が通ることで、そこに人が集まり街がにぎわう…。三浦さんは、その点でいえば、まだまだ復興は終わっていないと話します。
地元でがんばる人、これからチャレンジする人を、道を整備するという仕事を通して応援したいと話す三浦さん。三浦さんたちが災害時、力を尽くした道を通り、多くの人が釜石、大槌を訪れてくれたらいいと感じました。